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 ●催眠の歴史●

 

催眠の起源は非常に古い。長い歴史を持つ催眠の技術はその時代の意識の反映でもある。

そして「催眠の歴史」はそのまま「暗示の歴史」でもある。

古代エジプトにあった「眠りの寺院」では、僧侶が信者を眠りに誘い病気が治癒する暗示を与えていた。
この時の僧侶の使った手法は現在の「催眠誘導」と似ている。
この手法は紀元前四世紀頃にはギリシャに伝わり、その約百年後には、ローマ帝国で継承された。 
 
いつの時代のどの文化にも「祈祷師」、「シャーマン」、「メディスンマン」といわれる人たちが存在していた、
「暗示、眠り、癒し」という概念がヨーロッパに伝わった年代を特定するのは難しい、しかし、その概念はそれぞれの時代や文化を反映し、変化しつつ存続していったのである。

「手のわざ」として認められた心理療法の技術があった。その価値が広く受け入れられたのは、証聖王エドワード(1042−1066)が自らこれを使用して承認してからと言われている。彼は手を触れて癒すことにたけていた。
この療法は評判になり、イギリス教会は正しい治療法として承認し、「手のわざ」は公に認められるようになった。
当時のイギリスでは教会の言うことには間違いはないという時代であった。

しかし、その後イギリス君主がこの療法に興味を無くすと、民衆もこれにならった。
「暗示による癒し」の評判はガタ落ちとなり黒魔術と言われ、「文明社会においてそれを行うのは魔術師か妖術師」のわざと言われるようになり中世の人々はこのわざを怖れた。催眠についての誤解が多く生まれたのはこの時代である。

フランツ・アントン・メスメル(1760-1842)がフランスに登場した時も、大衆は好意的ではなかったが、彼は諦めなかった。そして彼の「メスメリズム」(動物磁気説)は貴族たちの間で人気を得て急速にひろまっていった。現在からしてみると「メスメリズム」は暗示以外のなにものでもないのだが、とにかく効果があった。最盛期には一日に三千人もの人が彼のもとを訪れるようになった。ここでも、大衆の意識と見解をリードしたのは特権階級だった。
 しかし、彼の社会に対する挑戦的な態度と性格が禁欲的な人たちの反感をかい、メスメルをねたむ医者や政治家の集団が、メスメルを失墜させようという委員会を組織し(べンジャミン・フランクリンもメンバーだった)その結果メスメルの追放という結果になった。しかし、彼の理論は引き継がれ、現在では一般的になっている集団の心理療法やイメージ療法の基礎となっている。 ただ、当時のメスメルは、あまりにも強烈な印象を残したために、その業績は黒魔術的な扱いを受けてしまった。

メスメリズムを最初に科学的に研究した医師は、イギリスのジェームズ・ブレイド(1795-1860)だった。
彼が初めてメスメリズムを目にしたのは、大道芸のような出し物であった。「こんなものはいかさまに違いない」と確信した。そして「いかさま」を証明するために真剣に取り組み、研究を進めていったのだが、かえってこの手法に引きつけられてしまった、友人と実験を繰り返したブレイドは、催眠の意識状態を誘うためには「まぶたが重くなる」ことが不可欠だという結論に達した。また、被験者の期待感が高まっていると、暗示を受け入れやすくなるということも発見した。 「催眠」、「催眠家」、「暗示」という言葉を最初に使ったのは、ブレイドである。
「催眠」という言葉は「眠り」を意味するギリシャ語「ヒプノシス」に由来する。
ブレイドが 「催眠」という言葉は誤解を生みやすく正確でないと気づいたのは、すでにこの言葉が普及した後だった。

ブレイドは、催眠家がいなくても催眠は可能であることを発見した。視線を一点に固定して見つめると、
目が疲れてまぶたが重くなる。すると自然に催眠にはいることを、
また、「あなたは眠くなる」という言葉を被験者にかけるとこのプロセスが短縮されることも発見した。           
 ブレイドの業績で重要なのは、
 
 1.オカルトの一種と考えられていた「催眠」に、信憑性を与えた。

 2.催眠の力は被験者本人にあり、催眠家には補助的な影響力しかないことを証明した。

ブレイドの個人的な友人で同僚のジェームズ・エスデール博士(1818-1859)がインドのカルカッタに派遣されていた時、彼は催眠の麻酔効果を外科手術に応用してみた。すると手術中の死亡率が五パーセント以下に低下したのである。この驚異的な数字に満足することなく、インドにいた数年間にエスデールはさらに催眠の麻酔技術に磨きをかけた。
 
そして帰国後、彼は母国(イギリス)でも同じような効果がでるだろうと思っていた。 ところが実際にはそうではなかった。 それは文化の違い、宗教観の違い、人々が持っている信条の違いによりまったく違った結果となったのだ。

インドでは「高次の自己」や「変性意識」などの概念や、瞑想の習慣があたりまえに浸透していて催眠を受け入れる素地があったが、イギリスではこう言われていた時代だ。
教会は大衆に「苦しみは神が人に与えた尊い試練だ」、「苦しみは耐えてこそ美しいのだ」。 エスデールはインドでの成果をイギリス医学会で発表したが、あざけり笑われた。それどころかイギリス医学会は、エスデールの行為は自然に反すると主張したのだ、神は人間に苦しみを与え、その苦しみは魂の浄化と人格の形成には不可欠だと考えられていた。 その後エスデールはあざけりと傷心のうちに人生を送った。

十九世紀のなかばに薬品による麻酔が実施されるようになってからは、医師たちも「苦しみ」に対する考え方を改めたのである、なぜか突然、必要以上の苦しみは尊い行いではなくなってしまったのである。 それにはビクトリア女王がクロロフォルム麻酔によって出産を滞りなく済ませたので、王室がこの新たな薬品を承認した。
 苦しみを賞讃していた教会は口をつぐんだのだ。 それにより医師たちは手当たり次第にクロロフォルムやエーテルといった薬品を使い出した。まさしく「魔法の薬」の登場である。みんなが「魔法の薬」を欲しがるので医師は手術の前に投与した、布に含ませて顔にのせるのだ。しかし、薬品に対する人体の許容限度などという知識がなかったために、「魔法の薬」によって死者がでるようになった。しかし薬品麻酔の人気はおさまらず、本来なら見直されるべきエスデールの業績は忘れ去られ、催眠は再び「怪しげな見せ物」「黒魔術」へと逆戻りしてしまった。

十九世紀末、心理学者フロイトが催眠に興味を持ったが彼は催眠を捨て、心理分析を選んだ。
しかし彼の「自由連想」というテクニックは紛れも無い催眠である。

 1901年、医師のウィリアム・W・クックはこう語っている。

催眠術はもっとも実際的な科学だ。日常生活に無理なく取り入れることができ、他にはない長所がある。催眠の実践はもはや娯楽のための暇つぶしではなく、専門家がその価値を認め、科学者がその信憑性を認識している。この技術は長年休眠状態にあったが、いまでは次世代へ引き継ぐべき研究だと認められている。

 催眠を学ぶことは、神秘と奇跡のベールをはいで知識を明らかにしていくことに似ている。その可能性は無限に等しい。生活のあらゆる側面とかかわっている。催眠家になるために何年も勉強する必要はない。この貴重な技術は私たちの全てが生まれながらに持っている才能であり、才能を開花させるために必要なエネルギーをそそげば使うことができるのだ。

二十世紀の初頭、フランスの薬剤師エミール・クーエが偉大な発見をした。「目覚めている時の暗示」と彼が呼んだ自己暗示の効用である。 有名なものに
 『毎日あらゆる意味で、私はますます向上している』というものがある。
彼は暗示に対して次のように説明している。

どんな種類の痛みでも、痛みを感じたなら一人になれる静かな場所にいって腰掛けて、目を閉じる。そして「この痛みは消える。この痛みは消える」と繰り返す。この言葉に反対する思考が入り込むすきもないくらいに素早く繰り返す。反対する思考が入り込まないので、自分でも「この痛みは消える」と思えるようになる。頭の中に定着した思考は本人にとって現実となるので、実際に痛みは消える。もし痛みが戻ってきたら、同じ事を十回、二十回、五十回、百回、二百回と必要なだけ繰り返す。痛みに苦しんで一日中ぐちを言ってるよりも、「痛みは消える」と言ってるほうがよっぽどましである。

また、彼は実際に催眠の効果を生んでいるのは催眠家が与える暗示ではなく、クライアントの意識であると気づいた。クライアントが暗示を受け入れなければ何も起こらない。つまり「すべての催眠は自己催眠である」という発見をしたのである。さらに彼は暗示の法則も開発した。これは弟子のチャールズ・ボードウィンが体系化し、現在の催眠のメカニズムを理解するための枠組みとなっている。

クーエはフランス国内では絶大な人気を得て、自己催眠の理論をアメリカに広めようと渡米したがここで大きな間違いをおかしてしまった、アメリカでの活動のすべての権利をある興行師にまかせてしまったのである。この興行師は「不思議なセラピー」を単なる見せ物として利用した。そしてクーエが開発した暗示の文章は語呂合わせの冗談のネタにされてしまった、ここでもまた大衆の意識が催眠を受け入れるのに充分ではなかったのである。ふたたび催眠は怪奇現象のように扱われた。

その後五十年間はこれといった進歩はないが、第一次世界大戦中と大戦後、麻酔薬の供給が底をついたドイツ軍はペイン・コントロール(無痛操作)と戦闘神経症の治療に催眠を取り入れた。

1933年、アメリカの心理学者クラーク・ハルは「催眠と被暗示性」という本を出版し、この本の中で次世代の若者たちに対して催眠の研究を奨励している。

第二次世界大戦と朝鮮戦争の時代に、催眠は再びペイン・コントロールと心の病を癒す手段として使用された。 そして医学の分野でも催眠を応用しようという興味が高まっていき、1958年、米国医師会が正式に療法として催眠を承認した。それ以来、安定した発展を続けている。そしてさまざまな形に応用されて催眠は日常に定着している。


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